スリランカの雨に消えたペンパルとの約束【純愛未満の海外文通】
雨が続きます。
大雨被害の映像を見ていると気分が落ち込みます。
そこまで降らなくてもいいのに。
ため息の中でまたひとつ思い出したことがあります。
中学で英語を習い始めたころ海外文通を始めました。
相手は同い年の女の子です。
- スリランカの雨に消えたペンパルとの約束【純愛未満の海外文通】
- 夢の文通コーナー
- ロマンの船便
- 文通相手はアジアの人
- 時速9キロの恋路
- スリランカの少女
- 彼女が日本に来る
- スリランカより遠い東京
- 茶畑のポストカード
- 10年後の再会?
- 斜面に広がる緑の風景
- 遠いスリランカ
夢の文通コーナー
当時私は13歳のハナタレ小僧。
その頃の雑誌には「文通コーナー」なるものがありました。
ペンパル(=文通相手)望む! なんて呼びかけにホイホイのって手紙を出すわけです。
世界中に同じような少年少女がひしめいていますから、募集側には山ほど手紙が届くのでしょう。
こちらがはりきって出しても、なかなか返事が来るものでもありません。
ロマンの船便
今なら逆に貴重でしょうが、数十円の切手代を節約するために 船便 で送ります。
郵便局の窓口で「船便で」とはっきりと伝えます。
1度モゴモゴ言ってたら、航空便(エアメール)のスタンプを押されて料金を請求され、悔しい思いをしました。
そうやって大人になっていくのです。
10円が大きい時代でした。
3ブロックのチロルチョコが10円でしたから。
文通相手はアジアの人
手紙をやりとりしたのは、ウクライナとかスリランカの人が多かった記憶があります。
ヨーロッパ、アメリカなどは敷居が高くて敬遠しました。
西洋人に対して変な劣等感があったのです。
で、割と近くのアジアの相手を見つけてはせっせと手紙を書いていました。
使う便箋は 国際便専用 の薄くて軽い材質のものです。
グラム単位で料金が違ってきますから、便箋も封筒も軽いものを使います。
時速9キロの恋路
手紙は船に乗って海を渡ります。
気の長い話です。
時速どのくらいになるのでしょうか。
ちょっと計算してみました。
日本からスリランカまでの直線距離が6600㎞。
平均すると手紙が届くのにひと月かかっていましたから
24時間 × 30日=720時間
6600㎞ ÷ 720時間 = およそ時速9㎞
ざっくり1時間に9キロ、手紙は移動していくわけです。
早いと感じるか遅いと感じるかは人それぞれです。
今はじめて計算して、間違いなく1時間に9キロ進んでいることがわかってちょっとハッピーな気分です。
スリランカの少女
で、2~3か月かけて返事が返ってきます。
何人かとやりとりした中でも長く続いたのはスリランカの同い年の女の子でした。
「私はごはんを食べます。放課後は釣りに行きます。。。」
書くのはとりとめのない文です。
相手がどんなところに住んでいて、どんな顔をしているのかさえ知りません。
なけなしの小遣いから切手代を握りしめて郵便局に走っていました。
スリランカの女の子は返事が早くて、こちらが発送してひと月半ぐらいで返事が届いていました。
彼女は航空便を使って送っていたのです。
スリランカの人は金持ちなんだと思ったのを覚えています。
彼女が日本に来る
なぜか気が合って彼女とは長く続きました。
まさかね、とは思いながらいつか会いたいな、なんて考えながら英文をしたためていたのです。
その頃の感覚ではスリランカの少女と会うというのは、目の前に UFO が降り立って宇宙人が出てくるぐらいの非現実性でした。
ありえないことだったのです。
3年がたったころ、彼女が衝撃的なことを言ってきました。
「父の仕事で東京に行きます。会いましょうね」
お父さんは宝石商をやっていると書いています。
宝石商。
豊かなはずです。
どうりで航空便で手紙を出せるわけです。
スリランカより遠い東京
はるか6600キロ離れたスリランカから「今度行くよ」と軽く言われちゃったわけです。
ところが私は日本の辺境に住む昭和の高校生です。
東京はスリランカよりはるかに遠いのでした。
はるばるスリランカからやって来る彼女に、東京は遠いから行けませんとは言えません。
長く続いた2人の間に不協和音が鳴り始めました。
それまで手紙に「会いたいね」なんて書いてきたのに、実際に会える機会が訪れそうになって手も足も出ないのです。
ばつが悪くて返事が滞ってしまいました。
茶畑のポストカード
1度手紙が滞ると、果てしなく破綻に近づきます。
なにしろ出して返るまで早くて1~2か月です。
そうしているうちに、1度だけ彼女から ポストカード が届きました。
山の斜面に広がる茶畑を背景に、彼女が微笑んでいる写真でした。
「今回は会えずに残念だったけど、またいつかね」
みたいなことが書かれていました。
10年後の再会?
その後、大学受験、就職と経るうちに海外文通のことも彼女のことも思い出すことはなくなりました。
文通が途切れてからちょうど 10年後。
私は会社を辞めて世界一周をめざして日本を出ました。
昔からの夢だったのです。
旅に出て8か月目にインドからスリランカに入りました。
その時は昔スリランカの女の子と文通をしていたことも忘れていました。
スリランカではずっと雨でした。
ひとり旅だし、雨で出歩けない。
安宿の部屋で本を読んだり、文章を書いたり。
ちょっと腐った時期でした。
斜面に広がる緑の風景
高原の町キャンディーからジープの乗合タクシーで南岸に向かいました。
長い山道の途中で休憩タイムがあったのです。
乗客がジープを下り、斜面に向かって声を上げたり背伸びをしたりします。
スリランカの人たちと一緒に下界を見下ろしたときです。
はっとしました。
眼下には整然とした茶畑が広がっています。
雨に濡れた葉がいきいきと輝いています。
初めての場所なのに、なんで懐かしく感じるのだろう。
そう思った瞬間に、彼女のあのポストカードの記憶がよみがえったのです。
忘れてしまっていた文通相手とのあれこれが、切なさを伴って10年ぶりによみがえりました。
遠いスリランカ
スリランカでは入国審査でも、最初のバスでもトラブルに巻き込まれ、散々な印象でした。
おまけに最初に読んだ新聞のトップの見出しが
「今月のテロの死者は800人!」
人口わずか1500万人の国で、です。
国の北半分は危険地域で、旅行者は立ち入り禁止になっています。
えらいところに来てしまった。
雨の中、暗い気持ちになったものです。
鬱々とした旅でした。
ところが茶畑です。
こんなところから彼女は日本にやって来たのか。
当然ですが、やはり私の家から東京までの距離など比ではありません。
あの時どうにかならなかったものなのか。
また後悔が頭をもたげましたが、鮮やかな緑にすぐに気持ちは切り替わりました。
10年前、「日本に行きます。会いましょう」と言ってくれた彼女の国を見れてよかった。茶畑を見れてよかった。
それだけでスリランカに来た甲斐があったというものです。
峠の茶屋から「セイロンティーを飲もう」と乗客たちが呼びかけてくれて、我に戻ったのです。
好きな国のひとつとしてスリランカは改めて思い出に刻まれました。
本日は当ブログをお読みいただきまして、ありがとうございました。