京都通い13年。あえて龍安寺の石庭とつくばいを見て悟ったこと
京都の龍安寺を訪れたことはありますか。
あの石庭で有名な世界遺産です。
今回は梅雨の京都旅行記です。
龍安寺を訪れるのは3度目になります。
どのお寺さんも何度お邪魔しても飽きることはありません。
季節によって風景も違います。
草花だけでなく野鳥や虫など棲息する動物だって行く度に違っています。
今回の記事は3度目の龍安寺で、ひとつ気づいたことを書いてみます。
最後までお読みいただければと思います。
- 京都通い13年。あえて龍安寺の石庭とつくばいを見て悟ったこと
- 参道を楽しむ
- 三門をくぐる
- 来た道と行く道
- 涼やかな石段
- 枯山水の石庭
- 我唯足知
- 意味を考えてみる
- 野鳥の声と人の営み
- 京都旅行に関する過去記事
参道を楽しむ
お寺を訪れる楽しみのひとつは参道の美しさです。
龍安寺でも三門(宗派によっては山門)までのアプローチがすでに美しく、はやる心をしっとりと落ち着かせてくれます。
今回は梅雨の季節だったので青もみじが美しい。
三門をくぐる
三門をくぐると砂利道が伸びています。
夏でも木陰には十分にやさしい風が吹いています。
少し歩いて、来た道を振り返ります。
先を急ぐのもいいですが、ときに振り返るのは大切なことなのでしょう。
人生と同じですね。
長く生きれば生きるほど、いろんなことがあります。
振り返った砂利道には、来るときとは違った光景が広がっていました。
砂利道の脇に苔が広がり、大きな岩が鎮座しています。
岩にも苔が生え、シダが繁っています。
目を戻し、前を見ると「行く道」が伸びています。
来た道と行く道
うしろを振り返ったり、前を見上げたり。
これまでの人生とこれからの人生を見るようです。
「ちゃんと生きよう」
なんとなく戒め気分が湧き起こります。
禅寺ってそんな場所ではないでしょうか。
と勝手に人生活用しています。
さ、木陰の涼しくて心地よい風を狙って歩きつづけましょう。
左手に手水舎が見えてきます。
本来なら手と口を清めるところですが、今はコロナ感染防止のためスルーします。
注意書きにも「使用禁止」とあります。
手水舎を過ぎると石段です。
木々の豊かな緑に覆われてうす暗いほどです。
涼やかな石段
石段の先に庫裏が見えます。
緑と白壁のコントラストをしばし見上げてから石段を上ります。
木陰の風がありがたくて、夏にたたずむこの場所が好きです。
野鳥がひっきりなしにさえずっています。
石段を上り、庫裏前の木陰でもう一度涼しい風を感じます。
枯山水の石庭
庫裏に入るとすぐ左手から白くまぶしい光が目に入ってきます。
方丈(畳の居室)を明るく照らすためとも言われる枯山水庭園の白砂です。
白くまぶしく輝いています。
方丈広間の襖絵には竜が描かれています。
石庭の白砂が陽ざしを反射して広間を明るく照らします。
三門までの参道や苔むした岩、三門をくぐってからの砂利道、石畳、石段、、、と美しいものが流れるように続きます。
道も木々も自然のようで自然ではない。
間違いなく自然のものではありません。
すべてに 人の手が施されて います。
自然の造形物ではないのです。
人が構想を練り、手を施して出来上がったものです。
これ、とても重要ではないでしょうか。
我唯足知
枯山水石庭から右回りに歩くと苔むした小さな庭があります。
ひんやりした空気を肌で感じながらゆっくり見て回ります。
その先に見えるのが「吾唯足るを知る」の蹲(つくばい)です。
意味を考えてみる
龍安寺は臨済宗妙心寺派のお寺さんです。
いわゆる禅宗のお寺。
つまり禅寺。
禅寺では庭園や調度すべてに意味がある、と私は考えています。
正確にはお寺のすべてのものから「意味を感じ取ろう」と集中します。
そう考えることが好きなだけかもしれません。
つくばいにも意味が込められています。
解釈は人それぞれでいいのだと思います。
私は「吾唯足知」を
今を満たされていると考え、今ないものを求めない
そう捉えて人生に活かしたいと考えています。
野鳥の声と人の営み
参道方ずっと野鳥の声が途切れることなく聞こえています。
静寂の石庭に向かっていても野鳥は鳴いています。
つくばいが近づくと、ようすが変わりました。
それまでは野鳥と木々の葉擦れの音だけが聞こえていたのに、別の音が加わって聞こえてきました。
「ザッザッ」
何かを掘るような擦るような音です。
つくばいまで来ると、その音の在り処(ありか)がわかりました。
職人さんです。
庭師さんと言うのでしょうか。
ご夫婦でつくばい横の泉水(小さな池)周辺を一心に掃除されています。
「ザッザッ」という音は、雨に濡れた落ち葉を手でかき集めている音でした。
「無心」とはこういう姿をいうのでしょうか。
お二人とも脇目も振らずに手を動かし続けています。
ああ、ここでも「美しいもの」を創り上げるために人の手が施されている。
参道から石庭、つくばいと心が洗われるような完成品を見させてもらったけど、最後の最後で完成にいたる過程を見た。
それはやっぱり人の手であり、本当に心を打つ美しさというのは「人の手」によってなされるものだと認識したのです。
何か大きな発見ができた気になって、清々しい気分で方丈を後にしました。
今回の龍安寺さんは昼前の参拝でしたが、朝いちばんにお寺を参るのが好きです。
職人さんが働く姿を目にすることができるからです。
過程と結果をいっぺんに拝見するようでお得感満載です。
なにより無心に作業する人の篤実さが伝わってきて、こんなに気持ちいいものはありません。
さて、龍安寺の森からは相変わらずさまざまな野鳥の鳴き声が聞こえてきます。
鏡容池を回り三門への帰りの道を歩きます。
市バスの停留所まで戻って市の中心部行きのバスに乗ります。
新型コロナ感染防止でいろいろ不便はあります。
その分、以前のように混んでて大変、ということはありません。
ゆっくりじっくりと見たり考えたりができました。
人が少ないときに思い切って出かけてみるのも手かもしれませんね。
京都旅行に関する過去記事
本日は当ブログをお読みいただきまして、ありがとうございました。